大坂前日譚(中)

 まだ元服して間もない頃の話である。その日信幸と幸村は、二人連れ立って野駆けに出ていた。
当時既に信幸は岩櫃城主であり、上田の弟とは離れて暮らしていたから、兄弟がこうして会うのは久しいことであった。幸村は傍目に分かるほど嬉しげであったし、信幸もまた珍しく気が昂っているのを自覚していた。
野駆けに出た先は城下の外れにある小高い丘である。馬を走らせるのに丁度良く開けており、上田の町を一望することもできたから、二人はそこを訪れるのを常としていた。
いつものように馬を走らせた後、小休止がてら景色を眺めていた信幸に、幸村が近付いて来て水の入った竹筒を差し出した。受け取ると、そのまま隣に並ぶ。
「やはり良い眺めですな、兄上」
眼下の城下町は上から見ても活気付いているのが分かる。幸村は家々から細く煙が立ち上っているのに満足げに目を細めた。それを見てとって、信幸も僅かに口元を緩ませる。
(これなら大丈夫だ)
さりげない折に民を思えるのは、良く領地を治める資質のある証である。真田は外患はともかく、内憂の心配は当分せんで良いようだ、とそこまで思って、信幸は笑い出しそうになるのを慌てて抑えた。
……そうだ、昔から、そのような心配をさせてくれるほど殊勝な弟ではなかった。
気配を悟ったか幸村が怪訝そうに見つめてきて、信幸は咳払いをして誤魔化した。
「――まさに、人は城、だな」
「……それは、その昔武田信玄公が仰ったという…」
「ああ。『人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり』。まこと的を射ていると思わぬか」
「はい、誠に。民は国の要でございます。ただ……」
「ん?」
「あまり敵は作らぬようにしたいものです」
婉曲ながらもきっぱりと言い切った幸村に、信幸は苦笑した。
武田の重臣として名を馳せたのは今は昔の話、真田は現在小国の一領主に過ぎず、生き延びる為には強い者の下に着かなくてはならぬ。危険な綱渡りである。裏切りや謀略も自ずと含まれることだった。
元々真田は軍師の一族、兄弟も躊躇いなど微塵もないが、……それでも仇は為さぬに越したことはない。そういう意味を内包した幸村の言葉の真意を、信幸は正確に汲み取っていた。
「こればかりはな。正論ばかり唱えている訳にもいかぬだろう。これが上杉なら、仇などない、と言い切れるのやもしれぬが……いや、そうとも言い切れぬか」
「上杉の義、ですか」
上杉の義を重んじる家風は大衆の知るところであった。
「だがこの時世だ、上杉とてそうとばかりは言っておれまい」
「……そう、ですね」
「何だ、厭うておるのか?」
歯切れの悪い口調に心底驚いて信幸は言った。弱き者は見限り強き者につくのが当たり前の時代である。ましてや稀代の策士と言われた父昌幸のやり方をその目で見て育ったのだ。信幸は政とはそういうものだと割り切っていたし、幸村も当然そうであると疑わなかったのだが。
だが幸村は緩く微笑んでかぶりを振った。
「まさか。家を守り民を守るためには必要なことでございましょう。こちらの都合など些かも構ってはくれぬのが、世の習いでありますれば」
「ああ」
信幸はそれきり言葉に詰まった。実のところ、少し戸惑っていたのだ。どちらかと言えば幸村には、策を巡らせ戦を楽しむきらいがあったはずだった。言葉にせずとも暗黙のうちに通じ合ってきた兄弟であったけれど、こんな調子で話すのを聞くのは初めてであった。
「……源二郎。どうした。お前がそのようなことを言うとは」
「野暮であるとは承知しております」
幸村は無造作に言った。
「ただ、少々思案致しまして。憂いてみとうなったのですよ」
「らしくもないことを」
「そうでしょうか」
その時の顔つきが余りに彼にそぐわぬものであったから、信幸もつられるように真顔になった。
「そなたももう元服したのだから、分かるだろう。名を残し家を守る重さがな。それに我等は小大名とはいえ、兵を束ねる者だ。兵を無駄死にさせる訳にはいかぬ。争わずに済む世をもたらす為ならば、我等の義など何ということがあろうか」
それは本心であったが、言い過ぎたと気付いて信幸は顔を赤らめた。だが、幸村は真面目な顔を崩さなかった。
「それだけでございましょうか」
思わず隣を見やると、彼は深い色を湛えた瞳で見返してきた。暫し鋭く見つめあい、……信幸はふと瞳の色を和らげた。
「如何に考えようとも、あくまで、私の一念に過ぎぬことだ」
お前にもあるのだろう、そういうものが、と続けかけて呑み込んだ。
(分かりきったことを聞くことはない)
しかし幸村には通じたようだった。
「そうですね。……兄上には敵いませぬな」
一度言葉を切る。ややあって、独り言のように呟いた。
「兄上。わたしは、武士でありたいと思います」
その時胸に飛来した感情を咄嗟に測りかね、信幸は息をついた。思考を巡らせようとした時にはもう、幸村はいつもの人懐こい笑みでこちらを振り向いてきた。
「さて、明日は槍が降りますかな」
「は?」
「珍しいことを申しましたゆえ」
「自分で言っていれば世話はないな」
「失礼。兄上にお譲りするべきでした」
「譲られたとて、私が素直に言ってやると思うか」
「思いませぬな。誠に遺憾ながら」
「……言うようになったな、お前」
「源二郎は元よりこの性分にございますれば」
「いや、違う。昔はもっと可愛かった。申すことにも愛嬌があったぞ」
「では今は何と」
「小憎らしい」
「恐悦至極にござります」
「誉めてはおらぬ」
軽口めいた会話に興じながら、信幸はふと隣に目をやり、彼の瞳に悪戯っ子のような光が戻っているのを見てとって力を抜いた。そうして初めて、自分が身構えていたことに気付いたのだった。
 

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