大坂前日譚(下)

 幸村がそのようなことを口にしたのは、後にも先にもそれきりだった。信幸もまた話そうとはしなかった。というよりむしろ信幸にとって、この出来事は、余計なことを口にし過ぎた若気の至りとして思い出すだに小恥ずかしい記憶の中に入っていたのである。
それでもなお信幸がそれを思い出の淵に留めていたのは、いつの日かこうして思い返す日が来るという予感がしたのかもしれなかった。
今にして思えば、あの時信幸は弟の心中を悟った気がしたのだった。真実そうであるかはわからぬ。しかし今また思い返して、やはりあの言葉は幸村の芯であると思い直したのも事実だった。
信幸は目の前の茶碗を手にとり、ゆっくりと口に運んだ。まろやかな苦味が広がる。
最後の一口を目を閉じて堪能し、
「結構なお手前で」
幸村はにこりと笑んでみせた。
(やはり、いささかも変わらぬ)
若い時分、武士でありたいと呟いた心が、現在の幸村の行動の元であると、ほとんど直感で信幸は信じている。
「兄上…」
言いさした幸村が、ふと居ずまいを正した。
「うむ」
言葉を探すように瞳が揺れる。それは、終始泰然としていた幸村が、この日初めて見せた逡巡だった。
信幸はじっと次の言葉を待った。
眼光が瞼の下に一瞬隠れて、それから信幸の瞳を射た。唇が開き、閉じ、また開く。幾度かそれを繰り返し、最後に幸村は兄の顔を見て小さく笑った。
「いえ、……」
「そうか」
信幸もまたそれだけを返した。
言葉などあらずとも。
どうせお前は、俺が居るから安心して自分の道を通せる、とでも思っているのだろう?
「……全く、ていが良い」
溜め息混じりに吐き出した言葉に、一瞬目を見張った顔が笑み崩れる。
幸村は例の悪戯っ子のような光を目に浮かべて言った。
「やはり、……兄上には敵いませぬな」
信幸は暫しぽかんと口を開け、……それから破顏した。訳の分からぬ歓喜が胸の内からせりあがってきて、いつしか声を上げて笑い出していた。
気付けば幸村もくつくつと喉を鳴らしている。
その日は晴れていた。晩秋へと向かう風が吹き抜ける中、京の外れの小さな庵を、兄弟二人の笑い声が柔らかに満たした。
 

「殿」
屋敷を出たところに鈴木右近が控えていた。
「殿。如何でございましたか」
抑えようとして抑えきれなかった問いと分かった。常の落ち着いた佇まいとはかけ離れた様子に、信幸は微笑して答えた。
「左衛門佐は息災であった。いささかも変わらぬ」
右近はそれだけで悟るところがあったらしかった。差し出たことを、と一言詫び、それきり無言で信幸の後につく。
「……のう、右近」暫くして、振り返らずに信幸は言った。
「――は」
「武士たるものに最も肝心な事とは、何だと思う」
右近は黙ったままだった。信幸が答えなど求めていないことを、この賢明な側近は敏感に察していた。
「それはのう」それまで一時も乱れなかった足運びがふっと止まり、
「見極める事と、貫く事だ。――私の一存に過ぎぬが、なあ」
「……如何にも」
右近は短く応じた。後ろに従う彼には主君の顔を窺い知ることはできなかったが、張り詰めた肩の線が緩んだのがわかった。
「……見事にやってのけたものよ」
ほとんど息に紛れた微かな声音に、右近は束の間瞑目する。
「良い天気だ」
再び歩き出しながら信幸は呟いた。
見上げた空は未だ碧く澄み渡り、しかし浮かぶ白雲の流れは不釣合いなほどに速い。
雨の予感がした。
 

真田太平記を読んで兄上のかっこよさにかっとなりました。
佐助の名前を出したのは管理人の趣味です。架空の人物という説が主流だそうですが、いたらいいなあ、という希望をこめて(笑)

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