大坂前日譚(上)

真田左衛門佐幸村が密会場所となった茶室に現れたとき、真田伊豆守信幸は目に涙が浮かぶのを抑えきれなかった。
幸村は当年とって四十九。信幸は五十。年子の兄弟であるため弟の年齢を忘れたことはないが、ただ本当に年子であるのか、どちらが兄か弟かさえ当人達も定かではない。もっとも信幸も幸村も、そのような事をついぞ気にしたことはないが。
敵方に与した弟とは、袂をわかったその日に二度とは会えぬ覚悟を決めていた。だからただ、こうして再び見えたことに胸が詰まった。……それは幸村も同じであったらしく、こちらも目に薄く涙を浮かべて「兄上」と言ったきりしばし絶句したが、……ふと頬を緩めて、真面目くさって両手をついた。
「お久しゅうございます」
信幸は思わず涙を忘れて笑んだ。
(変わっていない)
人を食った台詞をしゃあしゃあと言ってのける涼しげな顔つきも、朗らかな声の調子も、別れた時と、いやともに馬を駆けさせた少年の頃といささかも変わりがない。
「源二郎……」そう昔の名で呼んでしまえば、再会の挨拶はそれで済んだ。
「いやはや……」
「お元気そうで、何よりでござる」
「うむ。お前も。安岐殿や子等は息災であられるか」
「お蔭様にて。つつがなく」
「それは重畳。……佐助は。まだ傍に居るか」
「は。我が頼もしき右腕にて。……よく覚えておられましたな」
「覚えておるぞ。忘れもせぬ。我等が真田忍隊の長を出し抜いてやろうと、散々からかったからな」
「後で佐助がしきりとぼやいておりましたぞ。全く油断も隙もないお方だ、どちらが忍だか分からないではないか、と」
「ははは!それは良かった、狙いが見事当たっておったのだな」
他愛もなく話しながら、信幸は向かいに座る弟を改めて見やった。ゆったりと据わる体は流石に以前より一回りほどどっしりとして壮年の貫禄を身につけているが、容貌はかつて大阪城随一の美丈夫ともてはやされた面影を色濃く残していて、莞爾と笑めば、誰彼となく人目を惹いた秀麗な面が、どきりとするほどそのままに浮かび上がる。
眺めていたのに気づいてか、幸村が眉を顰めて問うてきた。
「兄上。何を笑うておいでか」
「いや」言いかけてからかうような顔になり、
「そなたが髭を蓄えるようになろうとは、な」
「似合いませぬか」
幸村は立派に蓄えた髭に手をやった。面映げに頬をかくしぐさに信幸は一層笑みを深め、
「そうではない。ただお前が髭を生やすなど、昔は思いもせなんだ、と思うてな」
「それならば」一瞬目を見張ってから、幸村は可笑しそうな顔になって言った。
「兄上こそ。そのように白髪がお見えになろうとは思いもしませんでした」
「違いない。……それほど増えたか?」
思わず本気の思案顔になった信幸に、幸村は声を上げて笑った。
「なんの。兄上は少しもお変わりになっておりませぬ。お気にせずとも、白髪など貫禄の証でありましょうに」
「うむ」
ちらりと眩しげにした眼には気づかなかった振りをして、信幸も笑んだ。
昔のように打ち解けた会話。しかし昔のままではないことを、二人とも無言の内に知っている。
 

……しばし沈黙が流れた。
 

「茶をお点て致そう」
幸村がいざって柄杓を取り上げた。それを見るともなしに眺めやりつつ、信幸はここ久しくなかったほど自分がくつろいでいるのを感じていた。
兄弟がこうして再会を果たしたのは家康の意である。そこに、「真田左衛門佐を徳川方に引き込むべし」と言う暗黙の命があることは明らかであったが、信幸は幸村にそのことを切り出す気はなかった。実際、始めに家康の密使からそれとなく打診された時、彼は側近の鈴木右近にこう囁いた。
「内府殿も無駄なことをなされる。のう、右近?」
微かに肯いて示した右近に「内府殿もお年を召されたかな」とまで言い、苦笑させたものだ。
幸村もそれは察しているはずだが、こちらも何も言わなかった。ただ降ってわいたように持ちかけられた話を承諾し、こうしてこの茶室を訪ったのだった。
幸村の茶を点てる手つきは滑らかで、気品を感じさせた。大阪で仕込まれていたのか、と信幸は考え、それから弟のもてなしを受けるのが初めてであることに思い至って口元を緩ませた。向かいの幸村は、穏やかに落ち着いた顔で手を動かしている。
「幸村」その問いはするりと口から零れた。
「何故負け戦なぞに与する」
幸村は茶碗を手に、するりとこちらに向き直った。流れるような仕草で茶碗を差し出し、
「何故でしょうな」
ゆったりと首を傾げてみせた。
「わからぬか」
「ええ。…ただ…」
「ただ」
問い返したが、幸村はそれ以上語る気はないらしく、ただ微笑った。こちらも追及しようという気はない。が、弟の少し目を伏せた表情に、ふとかつての記憶が蘇った。

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