Life is like a boat.
「人生は揺れるボートに乗っているようなものです」
 4歳からの20年を僕はほとんど思い出せないけれど、不思議とこの言葉だけは残っている。

Life is like a boat.

その日僕は盛大に落ち込んでいた。
 特に何かがあったわけでもないのにいつもの頭のキレが鈍って、バーナビー・ブルックスJr.らしくもない凡ミスを連発してしまった。まずハンドレッドパワーを発動するタイミングを間違えたし、いつもなら完璧に把握しているはずの他のヒーローの位置をチェックし忘れて、折紙先輩とニアミスしてしまった。それだけならまだ良いけれど、虎徹さんとの連携を僕の注意不足でダメにしてしまったのは痛恨だった。あの鈍いおじさんが、トランスポーターに戻ってから「バニー、今日どうした?」なんて聞いてきたのだ。屈辱だ。
 「自分でもわかってますから、これ以上惨めにしないでください」
 トランスポーターのソファに体育座りをしてつぶやくと、膝の間にうずめたまま上げられない頭の上に、乾いたタオルが落ちてきた。投げたのはもちろん、僕の他にここを使う唯一の人間、ワイルドタイガー。無言で両端を引っ張ってかぶると、盛大に吹き出す声がした。心外だ。
 「母ちゃんのほっかむりみてえ」
 「ホッカムリ?」
 聞き返したのに、彼は答えもせずに身体を折って爆笑している。この人は僕の神経を逆撫でする天才なんじゃないかとたまに思う。
「いやいや、寧ろてるてる坊主かあ?てるてるバニー、なんつってな!がはは」
失礼、訂正しよう。「たまに」ではない、「しょっちゅう」だ。
 車がゆるやかに揺れて、止まる。アポロンメディアに着いたのだ。虎徹さんは僕の気も知らず、肩をふたつ叩くとさっさとトランスポーターから出ていった。ダメ押しにこれ以上なくデリカシーのない言葉を残して!
「おっまえ、相変わらずメンタル弱えよなあ。女にケツの穴の小さい男って言われんぞ?」
 虎徹さんを見ていると、どうしようもなくこの人が好きだと感じる時と、どうしようもなく腹が立つ時がある。今は後者だ、間違いなく。
 思わず口から飛び出した、ファンの女の子が聞いたら固まりそうな放送禁止用語は、幸いなことに誰にも聞かれないままトランスポーターの中に落っこちた。


で、怒っていたはずの僕がなぜ、会社帰りに付いてきたおじさんを家に入れて夕食を振舞っているのか。
 僕が一番聞きたい。
 わざわざ料理をする時間も根気も残っていなかったので、夕食は帰りに寄ったデリだ。それでも虎徹さんは美味しそうに食べた。食べながら、並んでTVを見る。チャンネルを切り替えたとき、丁度フォートレスタワービルの映像が映って虎徹さんが懐かしいなと声を上げた。僕も、まだバディを組み始めたばかりの頃の爆弾事件を思い出す。二人ともたいがい無茶をしたものだ。
 番組はバラエティ寄りのワイドショーで、キャスターが「シュテルンビルトの新しい都市伝説」と声を張り上げていた。
「へえ。虎徹さん、知ってました?」
「毎日深夜0時から5分間、フォートレスタワーのイルミネーションが消えるって話だろ。んで、消えるのを見ながらキスしたカップルは永遠を約束される、と」
「またベタな…よく考え付きますね、そういうの。最近の若い子は凄いな」
「…やめて、お前がそういうこと言うと、おじさん凹むわ…」
食べ終わった皿とカトラリーを片付けて戻ってくると虎徹さんは勝手にシャワーを使っている最中で、最早自分の家とばかりの態度に溜息をつきながら入れ替わりに僕がシャワーを使って出てくると、リビングに酒を並べて一人で宴会を始めていた。
「…なんなんですか、貴方。一体何しに来たんです」
「やーほら、ぱあっと飲めば気分も晴れるだろ?気兼ねなく飲むには宅飲みが一番!ってな」
「…なるほど」
 不調を気にしてくれたのは嬉しいけれど、できればそっとしておいてほしかったというのが本音だ。今日の失敗は何か直接的な原因があったわけではないから、そんなことを言われてもかえって困る。
 けれど嬉しげにグラスを傾ける様子を見て、そうかこの人はただ単に自分が飲みたかっただけか、と納得がいった。
 溜息をついて横に座り、手近なビールを缶のまま一気にあおった。どうやら思ったよりも鬱憤がたまっていたらしいと、飲んでから気付いた。最近面倒な仕事が続いたせいもあるのだろう。
些か乱暴な飲み方を横目で見て、虎徹さんが笑った。ここまで見通していたのだとしたら、恐ろしい人だ。
「おーおー、苛ついてやんの」
「僕だって理由もなく苛々する時くらいあります。放っといてください」
「へいへい。そんな口利くんなら、自分で適度にガス抜きしろよ?ストレス抱え込む癖あんぞ、お前。最近溜め込んでたの、気付いてねえだろ」
「その言葉、そっくりそのままお返ししますよ。いつだって肝心なことは何も言わない癖に」
「だっ!蒸し返すなよ!それは悪かったって、何度も言ってるだろお?」
 憎まれ口を叩きながら、この人には敵わないと心底思った。まさか本当に見通されていたとは。
 ただ、できればその気遣いを自分自身にも向けて欲しいのだけど…って、これは僕の仕事か。相手が抜けているところをフォローするのがバディの役目。今まで頼ってばかりの僕には、ちゃんとやれているのかまだ少し自信がない。こればっかりは、僕が早く一人前になれるよう頑張るしかないのだろう。そう思ったら、今度は言えた。
「…本当に、特に何かがあったわけではないんです。ただちょっと失敗が続いて落ち込んだだけで。でも気遣って下さってありがとうございます」
「…ま、人生長いからな。悪いこともありゃ、良いこともあるさ。あんまり考えすぎんなよ、悪い癖だぞ」
その言葉にふっと既視感を覚えた。反射的に記憶を探りかけて、「あの事件」のことまで思い出して嫌な気持ちになった。
 皮肉なことに20年間の記憶を振りかえってみると、どうでもいいような出来事ばかりが断片的に残っている。マーベリックの計画に微塵も関係ない、些細なことばかりが。
思い出したのは、ハイスクールの校長が卒業式で言った言葉だ。この記憶も同じ、マーベリックがどうでもいいと思ったから残っただけの些細な思い出。
「人生は揺れるボートに乗っているようなものです」
 その時の僕は、人生は浮き沈みなんかなくてひたすら平坦なものだと思っていて、ぐずぐず鼻をすする同級生と並んで神妙な顔をしながら内心失笑していたのだ。
 虎徹さんのはそんな上品な例えではないけれど、言っていることは同じだろう。
 だけど、今度は否定する気にはなれなかった。
 それなのに、しんみり空気をぶち壊すのがまさに正義の壊し屋クオリティ。
「あ、今良いこと言った、俺」
「…全く。それがなければ少しは様になるのに。どこまでも締まらない人ですね、貴方は」
「にゃにおう?もっかい言ってみろ!」
「フッ。どこまでも締まらない人ですね、貴方は」
「フッてお前…!何だよ、今日はやけに突っかかってくるじゃないの、バニーちゃん。ホントにご機嫌斜めでしゅねー?」
 分が悪くなるとすぐ茶化すのが虎徹さんの癖だ。とりあえず子供扱いすれば、僕が怒って話がそれると思っている。それをわかっていながらわざと乗って、無駄にそっけなくした気まずさを追いやってしまおうとするのが、僕。
 お互い、狡い。
「だからバニーじゃありません。バーナビーです。何度言ったらわかるんです」
「はいはい、バニーちゃん。いいから飲め飲め。嫌なことは酒飲んで忘れちまえよ」
「言われなくても、飲みますよ…飲まなきゃやってられませんよこんなデリカシーのないおじさんと!その焼酎僕にもください」
「お前実はもう酔ってんだろ、話がずれてる…ってか、おいおい、それはそんな一気飲みするモンじゃねえんだって…だっ!」
 そこから先は、正直、記憶にない。

ふと目を開けると、目の前に床があった。
 瞬きを数回繰り返してやっと、自分がリビングの床の上で寝ていたことに気付いた。
 側にいたはずの虎徹さんの姿は消えていた。
 どこに行ったのだろうと寝ぼけた頭でぼんやり考えているうち、答えを出すまでもなく戻ってくる気配がする。
 薄く目を開けると、酒瓶とグラスを握った虎徹さんが目の前にいた。よいしょ、とおじさんらしい掛け声とともに床の上に胡坐をかく。
 そこで手酌で飲み始めておいおいと思ったけれど、なんとなく身動きするのが面倒くさくてそのままでいた。ここは暖かいから。
 ぼうっと見ていると髪のはねた頭が不意に振り向いて、反射的に目を閉じてしまった。
 かすかに漂ってくる香りはニホンシュのものだ。虎徹さんが家に来るたびに自分のお気に入りを持ち込むから、ワインしかなかったキッチンはいつの間にか世界中のお酒でいっぱいになってしまった。
 グラスをテーブルにかつんと置く音。服がこすれる音。
 視覚を閉じたせいで、それ以外の感覚がいつもよりも鋭敏になっている。
不意に肩が暖かくなった。腕をこする感覚で、僕の肩にジャケットをかけてくれたのだと察した。思わずぴくんと瞼が動いてしまったけれど、虎徹さんは気付いていないようだった。
またごそごそ言う音がして気配が動いた。目を閉じていても、隣の虎徹さんが僕の顔をじっと見ているのがわかる。

――バニー。

囁きに近い声は、いつもとはまるで違う静かに低いものだった。
ほとんど同時に、額に人肌の感触。
虎徹さんの指が額から瞼を通って頬へ下りて、頬骨の輪郭をなぞる。猫がじゃれているような仕草に僕は内心盛大に叫んでいたけれど、半ば意地になって寝たふりをし続けた。
目を開けるタイミングを失ってしまった、というのもある。
しばらくさまよっていた指が離れたのを確認してから、僕は寝ぼけて寝返りを打ったふりをして虎徹さんに背を向けた。正面には窓だ。今目を開けたら、シュテルンビルトの星空みたいな夜景が視界いっぱいに飛びこんでくるだろう。目を閉じていても、瞼の裏がわずかに明るくなった。
くつくつと、息に混じった笑い声。背中をつつっとなぞられて流石に声が出そうになった。腹筋に力をこめて耐える。いたずらな指先は、背骨を尻までたどってから脇腹をくすぐってきた。それでも反応しない僕に焦れたのか今度は脇の下をつつき、それから上になっている右腕を撫でる。
意識はもう完全に覚醒していた。
いい年した大人が二人して何をやっているんだろうと不意におかしくなって――根負けしたともいう――虎徹さん、と声をかけようとしたとき。
ふっと閉じた視界が暗くなった。
ちょっと戸惑ってからさっきの報道を思い出す。フォートレスタワービルの都市伝説。ここは真正面にフォートレスタワービルが見えるから、イルミネーションが消えるとそれだけで少し暗くなる。それじゃあ丁度日付が変わったところなのか、と思い至ったのと同時に、首筋に柔らかいものが触れた。
一瞬、何が起こったのかわからなかった。暖かい吐息が後れ毛を小さく揺らして、やっと気付いた。
キス。
された。虎徹さんに。
認識した途端、条件反射みたいに目頭がかっと熱くなって驚く。
じんとした感触が瞬く間に瞳全部に広がって、溢れそうになるのを、瞼をきつく閉じてこらえた。
聞いたばかりの都市伝説が頭の中を駆けめぐった。
この人はどんな顔をして僕に唇を寄せたのだろう。たまらなくなって、一気に身体を起こすと反転して唇を深く合わせた。びくっと震えて逃げかけた体をとらえて舌をからめる。
唇と唇が離れたわずかな隙間で、掠れた声がした。
「お前、起きてたのかよ…」
「起きてましたよ。ずっと。貴方が僕を愛してるってキスしてくれた時も」
「頼むから言葉に出すな、恥ずかしくて死にそうになる」
「だって僕嬉しいんです、貴方がそんな風にしてくれるのめったにないから」
「…今日は特別な日だからだよ」
きちんと顔を合わせる前に腕に抱きこんだのは、みっともないことになっている顔を見られたくなかったからだ。だから僕は、その声を背中越しに聞いた。

Little Bunny, my dear, my buddy.
Happy birthday, Barnaby.

バニーちゃん、バニー、俺の相棒。歌うような響き。
熱いものがとうとう頬に流れて、いい年して馬鹿みたいだと思いながらも止められなかった。覚えていてくれた、祝福してもらえた、それだけのことがこんなにも嬉しい。
瞼の裏がちかちかする。これから先ずっと、この記憶は僕だけのものだ。端から見たらどうでもいいと思うような、僕だけが知っている、些細で、もう誰にも奪わせない、特別な日の記憶だ。
明日はどんなに素晴らしい日になるだろう、と僕は思った。きっと明日は揺れるボートのようで、良いことも悪いことも待ち受けていて、でもいつか振り返った時、その思い出は星のようにきらきらしているに違いない。明日も、その先も、ずっと。
永遠が約束されたというのなら、願わくはいつかのその時も、一緒に過ごせていたら良い。そしていつかの誕生日にも僕の大事なひとがキスを贈ってくれたなら、それだけで僕はもう、この世界の誰よりもしあわせな人間になるのだ。
ちょうど今日の僕のように。


「バニー。まだまだ、先は長いぞ…?」
 その言葉がどれだけ愛に満ちて響くのか。
僕だけが知っている。

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