ずるい大人

 クリームの衝撃的な死から一夜明けて、恐る恐る出社した先でバーナビーの欠勤を聞いた虎徹は文字通り青ざめた。
 心配そうに眉をひそめたロイドから、風邪らしいけど何か聞いてる?と言われて――何て返したのだったか。ろくに記憶にない。一応様子を見てきてくれないかという言葉にうなずいたのだけ、覚えている。
 そんなわけで、虎徹は今、バーナビーの部屋のドアの前に立っている。

 虎徹がバーナビーの家を訪ねたのはこれで何度目だか、もうお互い覚えてもいない。それほど二人でいることに慣れていた。
インターホンを鳴らすと、オートロックのカギが小さな音をさせて開いた。まだ人を中に入れることはできる状態だと、少しだけ安堵して玄関を進む。これで応答なしだったら、どんな手を使ってでもドアをぶち破らなければならないところだった。
埃ひとつない廊下を抜けてたどりついたリビングで、バーナビーは椅子にもたれてうなだれていた。
「…バニー?」
返事はない。身動きすらなかった。
「バニーちゃん、おい、大丈夫か?」
 近寄ってそっと顔を上げさせたところで、ぎょっとした。
 ほとんど人相が変わってしまっている。目の下に濃く引かれた隈に、焦点の合っていない瞳。…たった一日で、とわななく唇をおさえて、虎徹はできるだけ静かな声を出した。
「バニー、わかるか?俺だ」
「……こてつさん」
条件反射のように口に出した途端、バーナビーの頬にひとすじ涙が伝った。
「こてつさん。こてつさん。こてつさん……」
 だらりと垂れさがっていた腕がすがるように少しだけ上がって、けれど虎徹の袖口には到底届かないところで落ちた。涙より顔色より、そのゆるく握られた拳に、虎徹は目を奪われてならなかった。
 バーナビーはいつもそうやって、誰にもすがれない拳を握って一人で生きてきたのだろうか。
 いや、疑問形にしなくてもとうに知っている、彼がそうして生きてきたことを。ジェイクの事件があってから彼の態度は明らかに変わったけれど、少なくともそれまでの20年間、バーナビーはずっと一人だったし、もしかしたらその後の1年間も独りのままだったかもしれない。虎徹は彼を二度とひとりにさせないために、彼に信じられるに足る人間でいようと考えてきたつもりだったけれど、そうやって1年かけて積み上げてきたものがこんなにも簡単に崩れてしまうならば、それにどんな意味があったというのだろう。
「バニー、飯食ったか?食ってないだろ、その様子じゃ。人間身体が資本だぞ。とりあえず何か食え、おじさん作ってやっから」
 どう声をかけて良いものか迷って、結局虎徹は最初に思い浮かんだ言葉を言った。昔母と兄にかけられた言葉だったことに、言ってから気付いた。

 冷蔵庫にあった食料を全部ぶちこんで作ったありあわせのチャーハンを、バーナビーは無言ですくって食べた。この家にコメがあって心底良かったと思う――唯一まともに作れる料理だからだ。コメがなければ虎徹は手も足も出なくなる。
 バーナビーの食べ方はひどく機械的で、食べているというよりドロイドが燃料を補給しているみたいだった。
 こういうとき、美人はたちが悪い。お人形さんみたいな顔が、本当にお人形さんに見えてぞっとする。
「美味しいです」
 ぽつっと落とした声も、つくりものみたいな抑揚のなさだった。
「そーかそーか、おじさんの自信作だからな!当然だろ!」
「はい」
 あまりの反応のなさにがくっと肩が落ちる。
「……ま、いいや。これ食って元気出せ」
 かつん、と音を立ててスプーンを置いて、バーナビーはぽつりと言った。
「今までの僕は、一体何だったんでしょう。何もかもわからなくなってしまいました。何を信じて、この21年、僕は……」
 大きな図体をした大人のはずなのに、まるで途方に暮れた子供のように見えて、たまらなくなった虎徹はふわふわの金髪を胸に抱え込んだ。楓がまだ小さかった頃、ぐずるとよくこうやってあやしていたのを思い出す。昔をなぞるようにゆっくり背中をさすり、頭を撫でてやる。
 バーナビーはされるがままになっていたが、やがて胸元からくぐもった声が聞こえた。
「……虎徹さんも」
らしくない、消え入るような声だった。
「虎徹さんも、僕を置いていくでしょう。何かあったら、何のためらいもなく、僕なんか切り捨てて行ってしまうんでしょう」
知ってるんです。疑問形にもなっていない、断定の形に虎徹は何も言い返せなかった。
だって本当のことだ。虎徹は娘が大事で、家族が大事で、自分が大事で、そのためならバーナビーのことなんか置き去りにして行ける。今まさにその宣言を、バーナビーに突きつけようとしている。
でもこの気持ちも、嘘じゃない。
嘘じゃないぜ、と言う代わりに、虎徹は抱えたバーナビーの頭を胸にぐいぐい押しつけた。きっとバニーは何もかも気付いている。必死で気付かないふりをしているだけで。
「虎徹さん」
「……ん?」
「抱かれてください」
あまりに即物的な言い方に、虎徹は場にそぐわないひっくり返った声を上げそうになって慌てて止めた。それでも動揺が伝わったのか、胸のところからくっくと喉を鳴らす音が聞こえる。
「お前、この空気でそれはないだろ」
「本気ですよ」
「だからだよ。勘弁してくれ」
「あなたを抱きたい」
「お前、人の話聞いてねえな」
「ええ。聞いてませんよ。あなたと同じだ」

 ――ああ。
 ――気付いていたのか。

 思っても、言わない。大事なことは全部胸に抱えて生きてきた。この期に及んで、虎徹は自分を曲げられない。
「いいぜ。抱かれてやる」
「本当ですか」
「おうよ。ほら」
片手で頭を抱いたまま、もう片方の手で相棒の腕を自分の身体に回させると、バーナビーが小さく身じろいだ。
「だけど、今日はここまで、な。ほら、抱きしめてるだろおじさんを」
「……ずるい」
「ずるくてもなんでも、今日はだーめ。やめときなさい」
こんな状態で俺を抱いても、お前、虚しくなるだけだぞ。この期に及んで、セックスにまで絶望したくはないだろう。
思ったことはやっぱり声に出さずに、虎徹は柔らかな巻き毛を指で何度も梳いた。
こうしていると、毛並みのいい兎そのままだ。本来なら、両親に愛されて何不自由なく育ってきただろう、血統書付きのふわふわ兎。
「ほら、たまにはおじさんの言うことも聞いとけ」
「…嫌ですよ」
口ではそう言いながらも、バーナビーはされるがまま動こうとしなかった。
「大丈夫。お前は大丈夫だ。ウロボロスのことだって、きっと何とかなるさ。大丈夫だバニー。……バーナビー」
なんの根拠もない慰めだ。普段のバーナビーが聞いたなら、苦笑するか辛辣な突っ込みのひとつも入れる類の。けれど、今のバーナビーは何も言おうとしなかった。
 代わりに背中に回った腕がためらうように小さく服をつかんで、それからぎゅっと力がこめられた。
 少しずつ震えてくる肩を、服ごしに胸に感じる熱いものを、全部抱きとめてやりながら虎徹は宙を見上げる。部屋の天井は整ってはいるが無機質で、望む何も映し出してはくれない。

――可哀想になあ、バニー。なんだってお前は、こういう仕打ちばっか受けるんだろうな。

小っちゃい頃から復讐のためだけに生きてきて、やっと乗り越えたと思ったらまた突き落とされて。お前は神様ってやつを恨んでいいと思うぞ。
だけどもう一度立ち上がってくれよ、バニーちゃん。
お前なら大丈夫だろう?大丈夫って言ってくれ。

俺はこれから、お前に別れを告げるんだ。

俺のせいでこれ以上お前を泣かすのだけは、勘弁なんだよ、バニー。

バーナビーの喉が奇妙な音を立てた。
強くしがみついた手のひらを背中で感じながら、虎徹はふるえる金色の頭をひたすら撫で続けた。

こいつがこんなにすがっている俺も、もうじき、いなくなる。

それが一番かなしかった。

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