若い女がひとり、格子戸にすがって何事か言いつのっている。格子の向こうの人物がなにごとか答えるのが聞こえた。静かな路地に、ひそやかな笑い声が響く。
永倉新八は、少し離れたところでその様子をただ見ていた。
やがて音を立てて戸が閉ざされると、その向こうの様子はもうなにもわからなくなった。

私説・格子戸別れ

 格子戸の向こうにいた、新撰組総長、山南敬助は、今日これから脱走の罪で切腹に処せられる。その最後の別れに、かれの恋人である明里を居室の窓までみちびいたのが、新撰組二番隊隊長をつとめる永倉だった。
誰かから指示を受けたわけではない。明里のことを知っているのは、永倉だけだからだ。副長土方歳三は、沙汰を下したあとは山南について何も語ろうとしなかった。けれど永倉は、もし知れたとしても、土方はこの件をとがめないだろうと踏んでいる。鬼の副長と恐れられる彼が、無口の陰にあきれるほど深い情を持っていることを、長い付き合いのなかで永倉は知っていた。
逃げたはずの山南が屯所にもどってきて、かれの処遇――隊規違反にて死罪――が決まったとき、永倉は山南にこっそり会いにいって、もう一度逃げるようにとせまった。――今度も形ばかり追手は差し向けられるだろうが、あんたなら逃げ切れる。俺はむしろ、なんであんたが一度で逃げ切らずに戻ってきたのかが解せねェよ。戻ったら切腹なことくれえ、わかってねえ訳ねえだろう。山南さん、考えてもみろ、こんなことで死ぬなんざ、莫迦みてぇじゃねぇか。逃げてくれ、俺ァ…いや、俺達はあんたに死んで欲しかねぇんだ。なァ山南さん、頼む――
 けれど、永倉がどれだけ言葉をつくしても、山南はとうとう首を縦には振らなかった。
 悄然としたまま夜を明かし、寝つけないままにふらふらと屯所を歩き回っていた明け方、永倉は沖田総司が井戸端にいるのを見つけた。山南が脱走したとき、追手として差し向けられたのが――そして、大津から山南を連れ帰ってきたのが、沖田だった。
 大津で見つかったときの山南のようすを聞こうと思い立って、永倉は庭に降りた。一歩踏みだしたところで、総司、と呼びかけようとした声がのどに張りついた。
 沖田は狂ったように頭からばしゃばしゃ水をかぶりながら、肩をふるわせていた。一体どれほどそこにいたのだろうか、足元はすでに水たまりと化していた。濡れそぼった髪をぐしゃりとかきまわして、なんで、と一言つぶやいたのを、永倉は確かに聞いた。
 永倉は石のようになった体をむりやり動かして、沖田に気付かれないようにそっとその場から離れ、その足で明里のもとへ向かったのだった。
 

 窓の格子戸が閉ざされた後も、明里は窓枠に手をかけてうつむいたまま、しばらく身じろぎもしなかった。
 永倉はそのななめ後ろで立ちつくしていた。
やがて明里はゆっくりと永倉を振りかえった。永倉は反射的に目を伏せた。普段豪胆で鳴らしている自分には珍しいことだったが、いまこのひとの顔に浮かんでいる表情を、――たとえどんなものであっても――見たくはなかった。
明里の視線が、うつむいた永倉のうなじにじっと注がれているのがわかった。永倉は顔を伏せたまま、眉間に力を入れて明里の言葉を待った。
やがて、ゆっくりと口をひらく気配がした。
「永倉はん」
声は涙に濡れてもふるえてもいなかった。自分とは少し響きの違う言葉が、まろやかに永倉の耳を打った。
「ここまで案内してくだはって、おおきにどした」
永倉は顔をあげた。明里が、まっすぐに永倉を見ていた。
「……俺はなにもしてねぇよ」
「いいえ。こうして連れてきてくだはって、おおきに。おかげで、山南さんともこうして最期に会うことができましたし――」
明里の瞳が薄く潤み、くちびるがふるえた。けれど声音は柔らかなまま、ただひたすらに優しかった。
「どすから、感謝しております。ありがとうございました」
泣けよ、と叫びたいのを、永倉は必死にこらえた。
思い切り泣きわめいてほしかった。自分の分まで、――自分と山南の分まで彼女が泣いて、なじってくれれば、少しは救われるような気がした。
けれど、それは永倉の身勝手で、彼女に押し付けていい感情ではない。
「こんなこと、何かしたうちにゃあ入らねぇよ。悪ィな、明里さん。力になってやれなくてよ」
だから殊更に軽く聞こえるように気をつけて、永倉は言った。
「いいえ。こうしてお気遣いくださっただけで、もう……これで、十分どす」
「……あんたは、それでいいのかィ」
「――ええ」
ほほえんだ明里の目から、涙がひとすじ、つ、と落ちた。それでも声色も、表情も、なにも変えずに、明里は静かに繰りかえした。
「ええんどす」
「――良くねぇよ」
白い頬に涙の筋を見た瞬間、永倉はたまらなくなった。自分でもぎょっとするような低い声が出て、あ、まずい、と思ったら止まらなくなった。
「良いわけねぇだろう、こんな……こんなことになっちまって……。何ンもしてねぇんだよ、俺は。礼なんて言われる筋合いねぇんだよ」
通りすがった町娘が、男の大声にびっくりしたのか一度永倉を振りかえって通り過ぎていく。けれど永倉には、周りのことなどもはや見えていなかった。のどの奥からなにか大きくて熱いものがせりあがってきて、それを吐き出すように言葉を叩きつけた。
「近頃山南さんの様子がおかしかったの、俺ァ知ってた。だがまさか、脱走なんて大それたこと考えるほど思いつめてたなんざ、夢にも思いやしなかった。何か出来たって言うんなら、そン時どんなことをしてでも問い詰めて、話聞いて、止めりゃあ良かったんだ。そうじゃなくったって、山南さんが捕まった後だって、どうにかこんなことにならないようにできりゃあ良かった。――だが俺は何もできてねぇ。山南さんのためにも、あんたのためにも、何もしてやれねぇ。それでいいなんて、言わないでくれ」
永倉は悔しかった。山南の切腹を止められなかった自分が、極刑に甘んじようとしている山南が、これからやってくる悲劇を受け入れているような明里が、そして今また明里に何もできない自分が、悔しくて、腹が立って、しょうがなかった。
頼むから俺をこれ以上惨めな気持ちにさせてくれるな――と言いかけて、永倉ははっと我に返って口をつぐんだ。今、自分はこの人に何を言おうとした?自分の気持ちばかりを怒鳴りつけて、彼女を一方的に傷付けはしなかったか。
「ア、すまねぇ、俺ァ……」
頭に上っていた血が、ざあっと音を立てて冷えていく。脳天から氷水を浴びせかけられたような心持ちになって、永倉はあわてて言い繕おうとしたが、上手い言葉はどうしても浮かんでくれなかった。口ごもったきり、あとが続かない。
気まずくなって下を向いた永倉の前の気配が、ふ、とやわらいだ。
「おおきに」
それでもう、永倉はなにも言えなくなってしまった。
いつのまにか、二人の距離は手を伸ばしたら届くほどに詰まっていた。しばらく見つめあったその間、永倉はもしかしたら、すがるような顔を向けていたかもしれない。彼女にはそういう男の甘えを受け止めてくれると思わせるものが確かにあって、永倉はそのとき初めて、かの人がどうしてこのひとを愛したのかがわかった気がした。明里はなにか言いたげなまなざしで目を細めていて、けれど結局、彼女はただこう言っただけだった。
「……永倉はん、まだお仕事ありますのやろ?もう行った方がええんでおまへんどすか」
それは静かだけれど有無を言わせぬ調子で、永倉は気圧されたようにうなずくしかなかった。
「ほんまに、おおきにどした」
綺麗にお辞儀をして背をむけた彼女のうなじで、桜色のかんざしがしゃらりと揺れたのを少しのあいだ見つめて、永倉もきびすをかえした。
ここのところ急に春の匂いを増してあたたかくなってきた風が、ゆるりと二人の間を吹く。
数歩あるいたところで、どこか切羽つまった声が足を止めた。
「――永倉さん」
振り返ると、明里がこちらを見つめていた。
「ひとつだけ、お願いが」
「……おぅよ。何ンでも聞いてやる」
それは嘘ではなかった。このとき永倉は本気で、この女が望むならどんなことでもできると思った。たとえば彼女が山南をさらってきてくれと言ったとしても、自分はその望みを叶えてやろうとするだろうと思った。
 「山南さんを……山南さんを、恨まいでください」
 「……」
 「あの人はほんまに、ほんまに、優しいひとどした。そやから、どうか恨まいでください」
 永倉は口を開けたまま立ちつくした。
この人は、最後まで、自分の幸せよりも何よりも、かれのことを案じているのだ。ほんの少しだって、永倉を救われた気になどさせてはくれないのだ。
とっさに応えようとしてつかえ、唇を閉じてまた開き、それからようやく声を絞り出した。無理やり出した音はひどくかすれていたが、知ったことではなかった。腹の底から叫んでやった。
 「わかってらァ。ンなこたあ、うちの連中は皆ンな知ってんぜィ」
 誰もが山南敬助を慕っていた。彼の人となりなど、彼が優しいことなど、ずっと一緒にやってきた俺たちは、とうに知っているのだ。
だから、大丈夫。誰も、あの人を悪く言ったりなどしない。
届け、と、永倉は祈った。せめてこの気持ちだけでも届いてくれと、精一杯豪快にみえるように仁王立ちして胸を張って、晴れやかに笑ってやった。
「大丈夫だぜ、明里さん。安心しなァ」
明里は今まででいちばん綺麗な笑みを浮かべて、もう一度頭を下げた。
そのまま背を向けて去っていく後ろ姿を、永倉はじっと見送っていた。凛とのびた浅葱色の着物の背が通りの角を曲がって消え、――そこで崩れ落ちるようにうずくまったのを、気配に敏い彼は正確に感じ取っていた。
風にあおられた着物の裾が、ちらりと角からこぼれて見えた。一度だけ強く目を閉じて、それから自分もきびすを返す。声を殺してしゃくり上げる声を聞かないように、永倉は雲ひとつない空をにらんだ。
――なァ、山南さんよォ。
心のなかで呟いてみる。今頃彼は何を思って格子戸の向こうに座っているのだろう。届くはずがないとわかっていても、言葉にせずにはいられなかった。
――山南さん。あんた、非道いお人だなァ。あんなに美しいひとを、泣かせちまうなんて。惚れた女は泣かしちゃいけねえって近藤さんに説教してたのは、何処の誰だってんでェ。
どれだけ詰っても、「仕方ありませんねえ、新八君」と穏やかに苦笑する声は、もう返ってこなかった。
見上げた空の端がわずかににじんだのに気付かないふりをして振り払って、永倉は歩き続ける。今日の出来事は鍵をかけて心の奥にしまいこんだまま、一生誰にも知らせないだろうと、確信にも似た気持ちで永倉は予感した。
戻れば、永倉は罪人の情人のことなど忘れて、また人を斬りに出かけるだろう。新選組の二番隊隊長とは、そういうものだ。
だからもう少しくらいは、「永倉隊長」ではなく「試衛館の新八っつぁん」のままでいてもいい。かの人に「新八君」と呼ばれたあの頃のままで、朋友の死を悼んでもいい。
屯所の門はもうすぐそこであった。
 

管理人は関東生まれ関東育ちなもので、作中の明里のセリフはすべて京都弁翻訳ツールに頼りました。京都の方には腹立たしい間違いもあるかと思われますが、笑ってスルーしていただけると幸いです。もしくはメールなり拍手なりで訂正してくださいお願いします(切実)
何ともお粗末な言葉づかいで誠にすみません…

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