美しいもの

 豊臣秀吉の命で薩摩へ起つ日の朝、謁見に訪れた大坂城で、家康は三成に遭遇した。 
 「三成」
 木張りの廊下ですれ違いざま、屈託なく声をかけた家康に、しかし三成は鋭い一瞥を投げただけだった。庭の木を見る時ですらもう少し親しげになるのではないかと思うほどのそっけなさにも、家康は気にする様子もなく距離を詰めた。
 「お前は確か、北に行くのだったな。お前も今日起つのか」
 「いや、明日だ」
 たいていの人間が「人好きのする」と称する笑顔を、三成だけはまるでないもののように扱う。一言こたえたきり、用は済んだとばかりに踵を返して歩き去ろうとする細い肩を、家康はとっさにつかんで引き留めた。
 「何だ」
 およそ愛想というものに縁のない三成だが、家康に対しては、声をかければ最低限の反応は返してくる。家康はそのことに少なからず喜びを感じていた。家康の目には、ひたすらに秀吉に忠誠をささげ続ける三成の姿は時に危うく映る。三成が秀吉と半兵衛以外を少しでも見てくれたというだけで、いつからか震えるような安堵が身の内を走った。
 「何だと聞いている。用があるのではないのか」
 問い直されてそこで初めて、家康は手のひらに掴んだ骨ばった身体を自覚した。わずかに眉をひそめた三成に、一瞬どうすれば良いか迷って、家康は結局にこりと笑いかけた。
 三成が心配だった。
 秀吉の(正確には、秀吉と半兵衛の)全てを力で抑え込むようなやり方に、家康はゆっくりと疑問を持ち始めていたところだった。無理やりに支配下に置かれ、兵士として過酷に使われる男たちと、置き去りにされて年貢と生活にあえぐ女子供たちを目にするたび、振り仰ぐ秀吉の巨体が地平線の向こうを見つめ、下に居並ぶ民たちをちらとも見ていないことに気付くたび、豊臣のやり方から気持ちの離れていく己を、いまや家康ははっきりと自覚していた。
 そうして豊臣から距離を置けば置くほど、盲目的といってよいほどに豊臣を愛し執着する三成の姿が不安でたまらなくなる。
 三成はいつだって一途で、脇目もふらずに進んでいた。曲がり方も止まり方も、彼は知らないようにみえた。お前は自分をもっと大事にしろ、と陳腐な言葉が出そうになって、けれど言ったところで一蹴されるとわかっているそれを押しとどめてしまえばもう、家康はいつものように笑うしか術を持っていなかった。
 「いや。気を付けて行けよ、三成」
 「私がしくじるとでも思っているのか家康。愚弄するな」
 「はは、そうだな。三成の強さは、ワシが一番わかっている。すまん」
 「私を一番わかって下さっているのは秀吉様だ」
 躊躇いなく言い切って、口の中で舌打ちをした三成は踵を返し――かけて不意に反転し、きっと家康を睨み上げた。
 それ自体が刃物のような眼差しに、家康はたじろいだ。
 「いいか、家康。貴様もしくじりは許さんぞ。薩摩など瞬息で平定して来い」
 「――ああ」
 返事が数瞬遅れたのは、気圧されたからではない。こちらを真正面から見据える瞳を、美しいと思ってしまったからだ。

 秀吉斃れる、の報が家康に届いたとき真っ先に頭をよぎったのは、天下の趨勢でも己の身の振り方でもなく、別れた時に見た、透きとおった瞳の色だった。

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